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出典:amazon

2019/04/18
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ダーティハリー第2弾! マグナムの爽快感と正義の所在について。Part2

人気シリーズ第2作!今度は暴走する正義をハリーが迎え撃つ。 パート2では、シリーズ1~2で共通する「アクションと倫理観」という二つの柱のうち、「警官の倫理観」をテーマに考察する。

ハリーVS謎の白バイ集団!「マグナムフォース」が始まる。

「ダーティハリー」シリーズの1と2では、娯楽アクションと警官の道徳観という二つのテーマが色濃く語られる。単なる娯楽アクションではない点が、本シリーズの高評価につながっているのだ。

前回のパート1では特に、ガンアクションを主とした解説をした。
パート2となる今回は、本作のもう一つの柱でもある警官の倫理道徳について語っていこう。

巷では論争の尽きないテーマではあるが、ハリーと白バイ集団の間には明確な一線が存在する。
彼らはその一線を越えて正義を主張するが、ハリーはあくまでもその一線を越えないのである。

果たして、ハリーが頑なに守るその一線とは?

監督は、ドン・シーゲルからテッド・ポストへ。その作風は

本作の監督は第1作で一流監督の仲間入りをしたドン・シーゲルではなく、テッド・ポストに変わっている。監督としても彼より若い。

テッド・ポストは、イーストウッドがスターとなるきっかけをつかんだテレビシリーズ「ローハイド」と、本作(1973年)より5年前の1968年に、「奴らを高く吊るせ!」の監督を務めている。
イーストウッドとは気が合った関係だと言えるだろう。

また、ダーティハリーとは対極にあるテレビシリーズ「刑事コロンボ・闘牛士の栄光」(1976年)なども監督している。
残念ながら、本作撮影中にイーストウッドとは演出上の意見の相違から、のちに一緒に仕事をすることはなくなったと言われる。

このテッド・ポスト、元々は演劇の演出家だったが映画も大好きで、映画好きが昂じて映画館の客席案内係になり、映画に夢中で業務を忘れることもたびたびだった。そしてテレビの黎明期が来ると、テレビ業界に飛び込んだという経歴の人。

作品の原案と第一稿を手掛けたのは、シリーズ第一作と同じジョン・ミリアス。
本作では題名通り、赤一色を背景にハリーが手に持つバカでかい拳銃・44マグナム6.5インチだけがアップになる衝撃のシーンから始まる。そして前作の有名セリフ「試してみるかい(Do you feel lucky)?」が冒頭で使われる。

その画面の背景で流れるのは、「ダーティハリー4」も手掛けることになるラロ・シフリンの音楽。ブルース・リーの有名作「燃えよドラゴン」のテーマも彼なので、おなじみの方も多いだろう。

画面は、前作が昼と夜のバランスが半々くらいだったのに対して、本作はほぼ昼間のシーンが多く、明るいイメージが強い。今回はハリーがやられるシーンはなく、前作以上に颯爽としたカッコいいシーンが多い。

ハリーのライバル?同類?それとも似て非なるただの犯罪者?謎の白バイ軍団が暗躍する

本作では、法の目をかいくぐり制裁を逃れる悪を次々と処刑する、警察組織のある集団が現れるところから始まる。

彼らは「法で裁けない悪人」を自らの手で処刑することを理念として結束している。しかし、それが誰であるのかわからないまま話は進む(とは言っても観衆から見ればバレバレではあるのだが、ハリーたちは知らないという設定である)。

ついにその正体がわかった時、彼はハリーを仲間に誘う。
「あんたも我々と同類じゃないのか。」彼らはそう思って話しかける。
ハリーの答えは「Im afraid you have misjudged me」。

直訳すると「オマエたちはオレを誤解している。」のような、つまり「オレはオマエたちと同類ではない。」あるいは「オマエたちの仲間に入るつもりはない。」という意味合いだが、日本語吹き替え版では主に次の二つに訳されている。

「俺が爆発しないうちに消え失せろ。」
「見損なってもらっちゃ困る。」

もちろん、ハリーは警察権力を使って私的に犯罪者を射殺する集団に入るはずがないのだが、このテーマが本作の論争のタネとなる。

ハリー否定派たちの意見は次の通り。
「犯罪人を自らの判断で処刑するという点については、ハリーも彼らと同じ。ハリーに彼らを批判する資格はない。」

擁護派たちの意見はこうである。
「ハリーは彼らと違い、のべつまくなしに犯罪者を裁いているわけではない。自分の職務の範囲内でしか殺人を犯していない。」

一般的にはこの論争では「ハリーも彼らと五十歩百歩」と言う結論になってしまうのだが、実はハリーと彼らとの間には明確な分岐点が存在する。

それは、彼ら白バイ集団が初めて無実の人間を射殺するシーンで明白となる。
今までは明らかに罪のある人たちであったのに、なぜ無実の人間を射殺する必要があったのか?
それは、彼らが執行犯であると言う目撃証人が現れてしまったからだ。
ここにこそ、彼らとハリーの明確な違いがある。

彼らは、匿名で殺人をしている。対してハリーは、匿名で人を殺したことはないしそれは決して彼のすることではない。

どんな批判を浴びることになったとしても、彼は自己責任で行動を起こす。
彼は自分の行動を人に見られることを恐れない。
そこがコソコソと隠れて人を殺す集団と、堂々と一人で行動をするハリーとの決定的なちがいなのである。

ラストシーンで再び使われる劇中のセリフ。今回のセリフは?

今回のセリフは、原語で「A man's got to know his limitations」である。

直訳すると
「男は自分の限界を知らなくてはならない。」
となるが、日本語の吹き替えでは
「ツキってのはいつか落ちるもんさ。」
また別バージョンでは
「男は自分の身の程を知るべきだ。」
となっている。

このセリフは、1回目はハリーがすぐ発砲するのを咎めた上司のニール・ブリッグスが「私は1度も発砲などせずにきた。」と言ったのに対するハリーの返答として使われた。
つまりそのニュアンスは「あなたは発泡せずに来られて運が良かった。でもその運がいつまで持つかわからない。」と言うものである。

対して別バージョンでは、「拳銃に頼らないあなたは、自分の身の程を知っている。」となる。
別バージョンのほうが直訳に近く、ブリッグスがバカにされているニュアンスとなる。

そしてラストシーンではラスボスを倒したハリーが、死にゆく彼に向ってこのセリフを吐いて映画は終わりとなる。

日本語の吹き替えで言うと
「ツキってのは~」
は、オマエの命運は尽きたと言うニュアンス、
「身の程を知るべき~」
は、オマエではしょせんオレに勝てないと言うニュアンスになる。

いずれにせよハリーは1作目同様、死神の化身として引導を渡す役割を担っている。

参考元

当社は、本記事に起因して利用者に生じたあらゆる行動・損害について一切の責任を負うものではありません。 本記事を用いて行う行動に関する判断・決定は、利用者本人の責任において行っていただきますようお願いいたします。

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