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2019/04/05
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プロ野球FA移籍した主な選手まとめ

プロ野球には、一定の条件を満たせば自由に移籍先を選べる「FA(フリーエージェント)権」という権利を取得できる制度があります。 この制度を使って、これまで数多くの選手が他球団またはMLBに移籍していきました。 今回は、FA移籍した主な選手をご紹介していきます。

目次

FA(フリーエージェント)とは?

自由に移籍できる権利

出典:

選手が自由に移籍先を選ぶことができる権利です。

一軍に登録されている日数が一定を超えると、その年のオフシーズンから権利を行使することができます。
日数の計算にあたっては、145日を1年と換算していきます。

権利を取得するまでに必要な日数は、入団した年や、最終学歴によって異なります。

FA制度の変遷

権利取得に必要な日数は何度か変更されています。
現行制度になるまで大きく2度の変更がありました。

1993年から2002年までは、当時存在した「ドラフト逆指名制度」で入団した選手は、10年(1450日)を経過すると取得できました。
それ以外で入団した選手は、9年(1305日)を経過すると取得できました。

2003年から2007年までは逆指名制度で入団したかは関係なく、全選手が9年(1305日)を経過すると取得できました。

国内FAと海外FAの区別化

出典:

2008年以降のFA制度は、国内球団のみ移籍対象の「国内FA」と海外球団も移籍対象になる「海外FA」が明確に区別されました。

国内FAは、2006年までにドラフト入団した全選手は、8年(1160日)を経過すると取得できます。
2007年以降に高卒でドラフト入団した全選手は、8年を経過すると取得できます。
大学・社会人でドラフト入団した全選手は、7年(1015日)を経過すると取得できます。

一方、海外FAは全選手が9年(1305日)を経過すると取得できます。

人的補償と金銭補償

FAで他球団へ移籍した場合、前所属球団は移籍先球団から、金銭補償または選手1名を人的補償として獲得することができます。

金銭補償の金額は、前所属球団が最終年に支払った年俸額を移籍先球団が支払います。

人的補償は誰でもいいというわけではなく、移籍先球団が事前にリストアップした選手名簿の中から前所属球団が選手を選ぶ仕組みになっています。

人的補償によって他球団に移籍したことで才能が開花し、FA移籍した選手よりも活躍するといったケースも多々あります。

1990年代にFA移籍した主な選手

松永浩美(FA移籍第1号選手)

1993年に行使し、阪神タイガースから福岡ダイエーホークス(当時)に移籍。

出身が福岡県北九州市ということもあり、念願だった地元球団への入団となりました。

初めてFA権を行使して移籍した選手となりました。

落合博満

日本プロ野球史上初の両リーグ200本塁打を達成した1993年オフにFA権を行使しました。

中日ドラゴンズから読売ジャイアンツへ移籍しました。

移籍時すでに40歳近い年齢で衰えを指摘する声がありましたが、在籍期間3年で2度のリーグ優勝を4番打者として貢献するなどの活躍を見せました。

工藤公康

日本プロ野球史上初の2度FA移籍をした選手です。

1994年オフに1度目のFA権行使をします。
西武ライオンズから福岡ダイエーホークスへ移籍しました。

その後、1999年オフに2度目のFA権を行使します。
福岡ダイエーホークスから読売ジャイアンツへ移籍しました。

現役時代に所属した西武、ダイエー、ジャイアンツではいずれも日本一を経験し「優勝請負人」と呼ばれていました。

河野博文(人的補償制度行使第1号)

1995年オフにFA権を行使し、日本ハムファイターズから読売ジャイアンツへ移籍しました。

FA移籍の際に、金銭補償ではなく人的補償を行った初めての例になりました。

初の人的補償で移籍した選手は、川邉忠義でした。

清原和博

1996年オフにFA権を行使します。
西武ライオンズから読売ジャイアンツへ移籍しました。

ドラフトの際、憧れのジャイアンツへ入団を希望しながら叶わなかった思いをFA移籍によって実現させました。

江藤智

1999年オフにFA権を行使しました。
広島東洋カープから読売ジャイアンツへ移籍しました。

当時ジャイアンツの監督だった長嶋茂雄から、自身が着けていた背番号「33」を着けてもらいたいと口説かれ、江藤は入団を決めたというエピソードがあります。

2000年代にFA移籍した主な選手

川崎憲次郎

2000年オフにFA権を行使し、ヤクルトスワローズから中日ドラゴンズへ移籍しました。

しかし、肩の故障に悩まされ、中日では思うような成績を残せませんでした。

2004年の落合監督初年度に開幕投手を務めましたが、5失点と精彩を欠く内容でその年限りで引退となりました。

谷繁元信

2001年にFA権を行使。
横浜ベイスターズ(当時)から中日ドラゴンズへ移籍しました。

1998年の横浜日本一と2008年の中日日本一を両方経験した選手です。
移籍後は長らく中日の正捕手として活躍し、監督も務めました。

「谷繁=中日」のイメージが強すぎて横浜時代を思い出せないというファンも多いことでしょう。

金本知憲

2002年オフにFA権を行使しました。
当時の阪神監督である星野仙一監督からの熱烈なラブコールを受け、広島東洋カープから阪神タイガースへ移籍します。

2003年の阪神18年振りの優勝、2005年の優勝に4番打者として貢献しました。

現在は阪神の監督を務めています。

阪神の生え抜き選手感が強いですが、自身は広島出身で大のカープファンです。

稲葉篤紀

2004年オフにFA権を行使しました。
ヤクルトスワローズから北海道日本ハムファイターズへ移籍します。

ヤクルト時代は野村克也、若松勉、日本ハム時代はヒルマン、梨田昌孝、栗山英樹、侍JAPANでは原辰徳。
それぞれ所属したチームの監督を必ず優勝に導く「優勝請負人」として活躍しました。

日本ハム時代に札幌ドームで起こる「稲葉ジャンプ」は札幌ドーム名物となりました。

小久保裕紀

2006年オフにFA権を行使します。

読売ジャイアンツから福岡ソフトバンクホークスへ移籍しました。

以前所属していた球団にFA移籍で復帰した初めての選手となりました。

なお、人的補償で吉武真太郎がジャイアンツへ移籍しました。

小笠原道大

2006年オフにFA権を行使しました。
北海道日本ハムファイターズから読売ジャイアンツへ移籍しました。

ジャイアンツは「髭・茶髪禁止」であるため、トレードマークの髭を剃りました。
両リーグでシーズンMVPを獲得しています。

また、2013年オフには2度目のFA権を行使し、中日ドラゴンズへ移籍します。
そこでは、トレードマークの髭が復活し、主に代打として活躍しました。

2010年代にFA移籍した主な選手

内川聖一

2010年オフにFA権を行使。

横浜ベイスターズから福岡ソフトバンクホークスへ移籍しました。
九州出身である彼にとって、ソフトバンクは念願の移籍でした。

主に中軸としてリーグ制覇・日本一に貢献し、常勝軍団を築き上げました。
また、両リーグ首位打者も達成しました。

村田修一・杉内俊哉

村田、杉内共に2011年オフにFA権を行使し、読売ジャイアンツへ移籍します。

村田は横浜ベイスターズから、杉内は福岡ソフトバンクホークスからそれぞれ移籍しました。

移籍後は、リーグ3連覇や2012年の日本一に大きく貢献しました。

岸孝之

2016年オフにFA権を行使します。

埼玉西武ライオンズから東北楽天ゴールデンイーグルスへ移籍しました。
地元宮城県出身で、学生時代まで過ごした思い出の地へと帰ってきました。

背番号はエースナンバーで西武時代からつけている「11」。

則本昂大とのダブルエースとして期待されています。

糸井嘉男

2016年オフにFA権を行使します。
オリックスバファローズから阪神タイガースへ移籍しました。

走攻守3拍子揃った選手で、2016年にはプロ野球史上初最年長35歳で盗塁王を獲得しました。

かなりの天然キャラで、時折意味不明な発言をすることがあります。

山口俊・森福允彦・陽岱鋼

3人とも2016年オフにFA権を行使し、読売ジャイアンツへ移籍しました。

山口は横浜DeNAベイスターズから、森福は福岡ソフトバンクホークスから、そして陽は北海道日本ハムファイターズからそれぞれ移籍してきました。

山口の移籍には人的補償が適用され、読売ジャイアンツから平良拳太郎がベイスターズへ移籍しました。

日本プロ野球史上初のFA選手同時3人獲得という前例のない超大型補強となりました。

参考元

  • ・参照リンク:NPB.jp 日本野球機構
  • ・日本プロ野球歴代全選手写真名鑑―1936ー2014B・B MOOK 1144

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