30歳で見つけた「天職」 二度とない“一瞬”を撮影する、スポーツカメラマンの仕事とお金

30歳で見つけた「天職」 二度とない“一瞬”を撮影する、スポーツカメラマンの仕事とお金

フリーカメラマンの田中慎一郎です。ほぼスポーツ専門で活動しており、夏は主に国内で野球・陸上・水泳を、冬はスイスやオーストリアなどのヨーロッパ・アルプスでアルペンスキーの撮影をしています。

仕事相手は、主に雑誌社や通信社、スポーツメーカーさん。報酬は日給だったり、写真1枚1枚の切り売りだったりとさまざまです。基本は足代(交通費や宿泊費)をいただいた上で、依頼されたものを忠実に撮ってくるという仕事をしています。

陸上競技を撮影するときの機材一式(右から時計回りに)
16-35mmとストロボをつけたEOS 5Ds、70-200mmをつけたEOS-1D X Mark Ⅱ、400mmをつけたEOS-1D X Mark Ⅱ


現在使用している機材は、デジタル一眼レフカメラ「EOS-1D X Mark Ⅱ」2台と「EOS 5Ds」1台。“大砲”と呼ばれる望遠レンズは「EF600mm F4L IS Ⅱ USM」と「EF400mm F2.8L IS Ⅱ USM」を使用しています。



これに加えて、いわゆる“大三元”と呼ばれる「EF70-200mm F2.8L IS Ⅱ USM」「EF24-70mm F2.8L Ⅱ USM」「EF16-35mm F4L IS USM」の3本、魚眼レンズの「EF8-15mm F4L フィッシュアイ USM」や「EXTENDER EF 1.4xⅢ」も愛用しています。ここで挙げたものは全てCanonです。余談ですが、現在の世界のスポーツカメラマンの100%近くが日本製のCanonかNikonの製品を使っています((最近はソニーやオリンパスもちらほら見かけますが、それも日本製ですね))。

「大三元」
広角・標準・望遠のズームレンズ3本をまとめた呼び名

カメラ好きの方には、冬のスキー場でのカメラの扱いについてよく聞かれます。私の場合、特に夏の使用方法と変わることはありません。特に寒かった2018年の平昌オリンピックでも、カメラ機材は平気で動いていました。逆に平気でなかったのは人間の方で、カイロを足先から腰や背中まで貼りまくり、体感温度マイナス20度の極寒に耐えながら撮影していました。

平昌オリンピックのアルペンスキー会場で、友人カメラマンに撮ってもらったカット
笑っていますが、この日は風が強く、競技は中止・延期となりました



私はフリーランスなので、仕事の形態は「依頼を受けて写真を撮る」または「撮った写真を買ってもらう」のいずれかになります。依頼を受けて撮影する場合、写真の権利などは全て依頼主である会社のものになります。よって、自分が撮った写真でも自由にはならないことが多いです。


逆に、依頼を受けずに自分でテーマを決めて撮った写真は、雑誌社などに売り込んで買ってもらうこともあります。私も実際にそういった営業活動をしていますし、価格設定も自分の裁量で決めています。自分の作品として、ホームページやSNSなどで発表することも可能です。



現在、フリーのスポーツカメラマンがもらう日給は2万円がスタンダード。もちろんそれ以下やそれ以上ということもあるかと思いますが、多くの同業の方々は、この価格設定にうなずいていただけるのではないでしょうか。



日給の場合は、プロ野球で4時間を超える延長戦でも、約2時間で終わるサッカーの試合でも、選手に対する30分のインタビューでも、一律で同じ価格です。たとえ3,000枚以上撮ったとしても、10数枚だけしか撮っていない仕事と変わらない日給になります。



年間でどれくらい仕事があるかといえば、もちろん人それぞれではありますが、スポーツイベントの開催日数や試合時間的にも、一般的な日本のサラリーマンの労働時間よりはるかに少ないでしょう。



年収そのものも、依頼を受ける際の日給や写真1枚当たりの単価によりますが、サラリーマンの平均年収より低いのではないかと思います。

カメラとの運命の出会い

ここからは、私がスポーツカメラマンを目指すまでの過程をお話しましょう。
現在50歳を目前にした私が都内の4年制大学を卒業したのは、1992年のバブル終焉期。とはいえ、就職活動の際はどの会社に行っても「我が社の業績は21世紀に向かって右肩上がり」という意気込みでした(入社した途端に「右肩下がり」になるんですけどね)。
そんな浮かれた時代に「どうしてもやりたい、自分にとってやりがいのある仕事」が見つからなかった私は、休みが取りやすく、転勤のない大きな会社に就職します。その理由は「スキーを楽しみたかったから」。当時の私は「スキー狂」だったのです。
学生時代にスキーと出会った私は、社会人になってからも長期休暇を取って学生の合宿にもぐり込んだり、国体の予選に出たり、草大会をはしごしたりと、とにかくスキーに全てを注いでいました。
お金も、とにかくスキーのために使っていました。スキー道具を積み込んでの移動手段として、入社後すぐに四輪駆動のステーションワゴンをローンで購入。スキー板は毎年のように約10万円レベルのものを買っていましたし、滑走面に塗るワックスにも毎年数万円ほどかけていました。この他にも、2〜3年ごとにスキーブーツとスキーウェアをそれぞれ約5万円かけて買い替えています。
学生時代に入っていた競技スキーサークルのコーチからは、「社会人はカネでタイムを買え」と言われていました。これは「いい道具を買って、少しでも速く滑れるようにしろ」という意味ですが、私はその言葉の通り、0.1秒でも速く滑れるように、稼いだ給料を高価な道具につぎ込んでいたのです。
しかし、そんな生活を送るうちに、だんだんと「自分はこのままでいいのだろうか」という疑問が湧き始めます。思いの矛先は、特にやりたいこともなく決めた「仕事」に対してでした。時代の雰囲気に流されるように浮かれて入社した私でも、リスクを負わない商売を続ける自社の姿勢や、自分の労力が売上にどう貢献しているのか見当もつかない仕事内容に、「自分には合わない仕事なのではないか」と違和感を覚え始めたのです。
そんなときでした。会社のすぐそばにあったヨドバシカメラで「カメラ」に出会ったのは。
このときの感覚は「ピピッときた」としか説明できないと、今でも思います。それまで「撮る」といえば、学生時代にアルペンスキーの技術を研究する目的でビデオを回していただけ。当然、写真に興味はありませんでしたし、何かを撮るという仕事そのものも、将来の選択肢に入っていませんでした。
そんな自分が、なぜいきなりカメラに興味を持ちだしたのか。きっと、当時働いていた業界内のスキー大会などで続けて優勝できるようになり、自分のスキー技術に対する興味が一段落したというのもあったのだと思います。
一眼レフのカメラとレンズを眺めるうちに、なんとなく「自分の仕事はこれではないのか」という思いがよぎりました。
昼休憩のたびに会社を抜け出しては、ヨドバシカメラのカメラコーナーとカメラ関連書籍の売り場に足を運び、カメラマンになるにはどうすればいいのかを模索する日々。いつか、自分のカメラで大好きなアルペンスキーを撮影することができたら、どんなに素晴らしいだろう。そう考えると、今まで目の前にかかっていたモヤがすーっと晴れていくようでした。

30歳、退路を絶って写真学校へ

カメラと出会い、会社を辞めてスポーツカメラマンになろうと決めた私は、辞める1年前から写真専門学校のオープンキャンパスに足を運び、写真の先生をつかまえてはいろいろと相談していました。当時の私は30歳。就職してから7年ほど経過した頃でした。
その際「君みたいに、30歳になってから来る子がたまにいるよ」と優しく迎えてくれた先生は、入学することになった翌年の春にも「君は必ず来ると思った」と覚えていてくれました。今考えると、先生の印象に残るほど必死に見えていたのかもしれません。
当時は実家住まいだったこともあり、「今まで一体何に使ってたんだ?」と首をかしげたくなるほどお金が貯まりました(ほぼスキーですね)。なので、スポーツカメラマンの必須機材である“大砲”のような望遠レンズやカメラボディも、その貯金で購入したのです。

球場での一コマ。中央の白い大砲が600mmレンズです

“大砲”のような400ミリ望遠レンズは、当時の価格で約90万円。秒間10コマの連写が可能なカメラボディは、約20万円でした。まだフィルムカメラの時代だったので、今主流となっているデジタル一眼を買おうとすると、その倍の40万円以上はするでしょう。



これらを手にしたとき、私は「もう後戻りはできない」と覚悟を決めたのです。

夢中になれる「天職」を見つけた

必要最低限の機材を手に入れた私は、休日のたびにスポーツ会場へ足を運びます。広角から望遠まで、数種のレンズを駆使しながら、スポーツシーンを写真に収める「練習」をしました。
これがもう、楽しくて楽しくて。この時点で「これほど夢中になって取り組める仕事は他にない」と確信してしまったのです。
そしてそのまま、全く根拠のない「なんとかなるさ」という自信だけで会社を辞めます。「会社を辞めて不安はなかったの?」と思うかもしれません。私には一切なかったです。「どうしてもやりたいと思える仕事」を見つけることができなかった自分が、これほどまで「天職」だと胸を張って言える仕事に出会えたのですから。会社を辞めるときの挨拶回りでも、顔を合わせた何人かの先輩に「いい顔をしているね」と言われました。そう思われるほど、自分の表情には「希望」が満ちあふれていたのかもしれません。
その後、2年制の写真専門学校に入学しました。年間の授業料は、入学金と合わせると約80万円。加えて、カメラの機材をそろえなければならなかったこともあり、貯金はみるみるうちに減っていきました。
結局、2年間通うはずだった学校は1年で中退してしまったのですが、辞めた理由は「お金がかかり過ぎてしまった」だけでなく、私の写真を見てくれていた複数の先生に「最初からフリーランスで仕事をしてみたら?」と背中を押してもらったからというのもあります。なので、中退後はフリーのカメラマンとして活動を始めました。とは言っても、そう簡単に仕事は舞い込んできません。
そこで、まずは学校に張り出されていたアルバイトの求人から仕事を探すことにしました。当時よくやっていたのは、小学校の遠足や修学旅行に付き添う専属カメラマン、クラシックバレエの発表会を撮影する仕事など。日給は1万円〜1万2千円ほどでした。サラリーマン時代の月給を日給に換算すると安いとは感じていましたが、それでも、写真を撮るという「仕事」でお金をもらえることに心から喜びを感じていました。

ライフワークとなったアルペンスキー・ワールドカップ

こうして、日雇いのカメラマンとしての仕事をこなしながら、少しずつ営業活動も始めることにしました。何の紹介もツテもなかったので、スポーツ雑誌の裏表紙に書いてあった編集部の電話番号に「写真を見ていただくお時間をいただけないでしょうか?」と直接交渉をしていました。
当時も今もスポーツカメラマンからは一目置かれるスポーツ雑誌『Number』にも、飛び込みで営業をしました。というのも、専門学校の先生からは「営業をするなら、トップから行け」と教えられていたのです。10数社ほど電話を掛けましたが、運がいいことに、門前払いをする雑誌社は1つもありませんでした。
いただいた仕事を一つ一つ、丁寧に取り組んで撮影するうちに、依頼を受けることも少しずつ増えていきました。スキー雑誌からの依頼で、国内のレースを撮ることも増えていきました。そしてその過程で、どこまでも追い掛けていきたいと思う日本選手とも出会うことができました。
最初の出会いから3年後。その選手がいよいよ主戦を国内からヨーロッパへ移すことになったとき、私は何の当てもなく、赤字覚悟で渡欧することを計画していました。しかしそんなとき、運良く先輩カメラマンから「自分の代わりに、このメーカーの選手をより多めに撮ってきてもらえないか」と仕事を回してもらうことができたのです。
このことをきっかけに毎年渡欧を続け、だんだんと営業先でスキーの写真が売れるようになりました。そのおかげで、今では「アルペンスキー・ワールドカップ」はライフワークと呼べる撮影テーマとなっています。

スイス・ヴェンゲンの名峰、アイガーをバックに疾走する選手

これまで15年続けているアルペンスキー・ワールドカップの撮影は、全て自費でまかなっています。ヨーロッパへの飛行機代、スキーリゾートでの宿泊代、カメラ機材とスキー用具を積んで移動するレンタカー代と、とにかく費用がかかります。1週間の滞在だと約25万、4週間だと約60万円くらいでしょうか。それでも、荘厳なヨーロッパアルプスの山々を疾風のごとく滑走する選手たちに魅了されていた私は、それを撮影できることにただただ喜びを感じていました。



学生時代にテレビで見ていたアルペンスキー・ワールドカップは、私にとってまさに憧れの世界。ドイツ語で流れる現地の場内実況、打ち鳴らされるホーンの音、煌々(こうこう)とたかれる赤色灯。5万人を超える観客が大歓声で見守る中、雄大なヨーロッパアルプスをバックに、鋭いエッジで氷の急斜面を切り裂いて疾走する屈強なアスリートたち。ヨーロッパの異文化の中で生き続ける「白いサーカス」がこの世に存在するものであると、私にはなかなか実感できませんでした。

「白いサーカス」
欧米を中心に、世界各国にある20以上のスキー場を転戦するアルペンスキー・ワールドカップの盛り上がりは、「白いサーカス」と称されている。

ですが、最近はシーズンの始めになると「行くかどうか」を迷うようになったのも事実です。確実に写真が売れて、黒字になるという保証がないからです。憧れの世界で撮影するようになった今でも、「プロとしてお金にならないということは、必要とされていないのではないか」と考えてしまうことは多々あります。



それでも毎年冬が訪れると、気が付けばオーストリアの山の上にいます。たとえ黒字にならなくても、アルペンスキー・ワールドカップの撮影には、言葉では表せない魅力があるのだと思わざるを得ません。

二度と繰り返されることのない「一瞬」を逃さずに

インタビューや選手の練習環境などの取材先では、同じくフリーで活動しているライターと一緒に仕事をすることがあります。そんなときに、よく「フリーのライターとカメラマン、どっちが楽か?」という話になります。
私は、取材で聞いた話を文字に起こし、何度も書き直しながら文章を完成させていくライターの方が、終わりなき仕事のようで大変ではないかと思っていました。ですが、とあるライターに「スポーツカメラマンは、毎日試験を受けているようなもんじゃないですか」と言われたのです。
確かに、スポーツの試合に「もう1回やってもらえない?」は、まずあり得ません。その場面を撮り逃がしたらそれで終わりです。なので、集中して撮影に臨みつつ、どんなスポーツでも「次に起こること、起こりそうなこと」を予測しながら試合を追い掛けます。そしてその“何か”が起こったときに、カメラはどう対応するべきか。常に近未来を想像しながら撮影しているのです。
そういう意味では「毎日が試験」ですし、どう対応すればいいかという判断は経験がものを言います。場数を踏んでこそ、次に起こることの「予測バリエーション」の数も増えてきます。この経験に基づく対応力に加えて、集中力と技術力を保ち続けられるカメラマンが、優れた写真を撮れるのだと私は思うのです。
スポーツに限りませんが、目の前の「一瞬」は二度と繰り返されることはありません。
並外れた才能と、見るものに感動を与えることができる一流のスポーツ選手に撮らせてもらえる「その一瞬」を逃さずに捉えるのが、私たちスポーツカメラマンの仕事だと思っています。

こちらは、私の代表作です。2015年2月5日、アメリカ・コロラド州の高級スキーリゾート「ビーバークリーク」で行われたアルペンスキー世界選手権での1枚。アメリカのボディー・ミラー選手が男子スーパー大回転で転倒したシーンです。これを自身の代表作とするのにはいくつもの理由があります。


まずは、予期せぬシーンを逃さず撮ったこと。そして、頭と足が逆さまになっている過激な転倒シーンであること。被写体が当時のスーパースターであり、優勝候補で地元アメリカの選手だったボディー・ミラーであること。この転倒直前の中間計時で、ボディーは全選手中トップだったこと。彼がこのレースを最後に引退したため、これが事実上のラストランになったこと。



そして何より、この豪快な転倒シーンは、直線的で攻撃的な滑りをもって北米よりも欧州で多くのアルペンスキーファンを魅了していた彼らしい瞬間でした。



このシーンを捉えることができたのは、世界でも私と私の友人であるオーストリア人カメラマンの2人だけ。この写真は、レース翌日に現地で発行された新聞の紙面トップを飾ることになりました。さらに世界中のメディアに配信され、アルペンスキー界のスーパースターであるボディー・ミラー選手最後のレースで起きた出来事として、永く記録されることとなります。お時間のある方は「Bode Miller Shinichiro Tanaka」と検索してみてください。



私の代表作は、こうして「被写体に撮らせてもらうその一瞬を、逃さずに捉える」というのを確実に行ったことで得られたものだと自負しています。



写真を撮るということは、その瞬間を記録するということ。大げさに言えば、それはかけがえのない、2度と繰り返されることのない出来事を後世に残すということだと思います。



スポーツは常にドラマの連続です。ゲームの終了と同時に、歓喜する勝者と、がっくりと膝を折る敗者が、1枚の写真に収まることもあります。なんとも言い難い、劇的な場面です。



そんな一瞬と出会い、その瞬間を撮らせてもらえたときは、お金に代え難い時間を過ごしたといつも思っています。



スポーツを主に追い掛けるフリーカメラマンの報酬は、「プロの仕事」の対価としては十分ではないのかもしれません。あのままサラリーマンを続けていれば、今の年収の1.5倍はもらえていたかもしれません。



それでも、お金に代えることのできないプライスレスな瞬間に出会える喜びは、何ものにも代え難いもの。それを考えれば報酬は二の次……と言いたいのは山々ですし、ここまでの話の流れとしてはそう締めくくりたいところですが、残念ながら「プライスレス」では生活はできません。やっぱりお金も大事です。



ただ、写真を撮ってそれを売るという商売は「余剰」な産業だということも、常に頭に入れておかなければならないと思っています。実際、日本ほど雑誌や新聞、広告が世の中にあふれ、フリーのスポーツカメラマンが生きていける環境がある国は他にないでしょう。毎年顔を合わせるヨーロッパ各国のカメラマンたちからは、「大手新聞社に写真1枚1ユーロと言われたからくれてやったよ」というひどい話を聞いたことがあります。



スポーツ写真なんかなくても、人間は生きていけます。それでも多くの人々に求められるのは、人間の奥底にある喜びや感動への欲求がそうさせているのかもしれないと考えるのです。



かっこいいスポーツ写真の価値を、もっと多くの人に理解してもらえるように。これからもいい写真を撮り続ける努力をしなければならないと同時に、スポーツ写真の「違いが分かる人」とも出会っていきたい。そんな瞬間を増やしていけたらと思います。



スポーツ写真も、人生も、二度と訪れることのない「その一瞬を逃さずに」。

1968年東京生まれ。2003年よりアルペンスキーワールドカップを本格的に撮影し、国内ではアマチュア野球と陸上競技を中心にスポーツ全般の撮影を行っている。現在、アルペンスキーワールドカップの年間約40戦のうち、その70%をカバーする唯一の日本人フォトグラファー。AJPS(日本スポーツプレス協会)、AIPS(国際スポーツプレス協会)会員

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